宇治十帖「雪降る夜の憂しき里の恋」

 

-はじめに-

大学入試における古文の難問出典は、と聞かれれば即座に「無名抄」と「讃岐典侍日記」と「源氏物語」(その中でも特に宇治十帖)と答えるでしょう。

「無名抄」は鴨長明の書いた歌論集です。歌論集とは和歌の論説文です。論説文が難しい。歌学用語を知らなければいけない。何より和歌の説解力が必要です。何とも受験生泣かせの作品です。

「讃岐典侍日記」において、作者にとって亡き堀河天皇との思い出は、心の中の大切な大切な玉手箱です。宝物は、現実よりも堀河天皇との思い出なのです。それ故、現実と堀河天皇ありし日の回想が入り乱れ、何が何だかさっぱりわからなくなります。

これに対して「源氏物語」は、ストーリーを知っていると生半可な単語力・文法力よりも頼りになる大きな武器となります。「源氏物語」の中でも特に一番内容の知られていないのが宇治十帖です。そこで、思いつくまま宇治十帖を語っていこうと思っています。論述するのではなく、「語る」というイメージで、より解りやすく宇治十帖を伝えたいと思います。

田辺聖子氏の小説に「霧ふかき宇治の恋」という作品があります。魅力的な印象深い題名です。宇治十帖はとても暗い小説です。いやになるくらい暗く切ない小説です。当時の読者は舞台が都から宇治に移った時点でその内容を察していたと思います。なぜなら「宇治」は「憂し」に通じているからです。

当時の地形から考えれば、宇治は霧深い地だったと思います。しかし何故か紫式部は宇治十帖の印象的な場面に於いて、幾度か雪の降るシーンを演出しています。私は「雪降る夜の憂しき里の恋」という方が宇治十帖の本質に迫っているのではないかと思っています。

源氏物語は考えようによっては非常に中途半端な小説です。何故、源氏が亡くなったところで終わらなかったのか? ずっと疑問に思い続けてきました。最近やっと一つの答に辿り着きはじめています。

小説というものは作者の手元で書かれてはいますが、その時に作者の気持ちを離れて登場人物が一人歩きをして、どんどん次の生き方を生み人生を歩んでいく、その力に引き摺られるようにして続いていく小説こそが、素晴らしいのではないか。それが本当の意味での生きている小説なのではないか。

物語の後半に薫と紫の上がとても可愛がった三の宮(のちの匂宮)が登場してきます。この二人がどんどん一人歩きをしていくようになり、源氏亡き後も、紫式部はこの二人に誘い出されるようにして筆を続けて「宇治十帖」が出来上がったのではないかと。

 

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